子育て昔話 出産第三子編

3人目妊娠時、真夏であった。

真夏の妊婦がこんなにきついとは思わなかった。

上2人が始終外に行きたいと騒ぎ立て、日焼けをした妊婦が出来上がっていた。

 

8月お盆最終日の未明、お馴染みの痛みがやってきた。

上2人をなるべく寝かせたく、ギリギリまで我慢をする。

我慢ができなくなり夫を起こすが、3人目だからだろうか。

「ほんとに?」と言って寝てしまった。

一応20分くらい我慢をして、怒りながら再度起こす。

 

「なんで起こさなかったの?」と覚えていない様子。

怒っているのも意味不明らしい。

パジャマ姿の息子と娘を実家に預け、病院に向かう。

 

病院に着き陣痛室に入り、ウトウトしたり

看護師さんとお話したり

夫に背中をさすってもらったり

水を飲んだり

・・・しかし、なかなか子宮口が全開になってくれないのだ。

3人目なのに、何故!?

夜が明け、昼過ぎになりようやく本格的になってきた。

 

夕方近くに今でものんびりした次男が出てきた。

なかなか出てくれなく、助産師さんが私のお腹の上に乗って押し出されてやっとだ。

 鉗子で引っ張ったりもしたので、頭がひょうたんのような次男。

 

最後の子どもと決めていたため、じっくり産後同室を楽しもうと思っていた。

が、三人目の子宮収縮がいまでも忘れられないくらいに痛く

看護師さんに頼んで2日目の晩、預かってもらう始末だ。

痛みと自分の不甲斐なさに涙が出てくる、という思いっきり産後ブルーだ。

 

その後、何年間もの睡眠不足と子どもの可愛さと自分の未熟さと

色々とあったが、私の能力を超える大仕事であった。

その話はまた後日。 

子育て昔話 出産第二子編

4年後、第2子出産がやってきた。

今回は10月末予定日、女の子。

  

 10月2週の初めくらい、私の6歳下の弟カップルが遊びに来た。

山ではなく近くでバーベキューをすることになった。

長男も弟に遊んでもらい、充実した一日が終わり

自宅に帰宅。

 

夕方車からバーベキューの道具を、夫が黙々と降ろしていた。

姉2人の弟はお兄さんというものに憧れていた。

夫の近くで手伝いながら、しきりに話しかける弟。

 

気のない返事をする夫。

一計を案じた弟。

鍵を開けてもらおうと、我が家の鍵を弟に預けていた。

その鍵を鼻の中に入れて夫に話かける弟。

さすがにまじまじと弟の顔を見て夫。

「〇〇(弟の名前)それ鍵でしょう?バカじゃないの」

これに妙にツボッた私、その晩はそのことを思い出すたびに涙が出るほど笑った。

 

夜中お馴染みのシクシクで目が覚めた。

まさかの笑いすぎにより陣痛が誘発されたようだ。

夫を起こし、長男を毛布にくるみ実家で預かってもらい

病院に着いた。

 

陣痛室はベッドが2つ、先約さんがいた。

その方が、騒ぎに騒いでいる人だった。

旦那さんに八つ当たりし、お母さんに八つ当たりし

泣きに泣いて帰りたいと喚いていた。

看護師さんは私にかまう暇もあまりなく

「〇〇さん(私のこと)、帰ってもいいかもね~」

などと呑気なものだ。

 

放置されて2~3時間。

隣の方の声もあまり気にならなくなるくらい

お腹が痛くなってきた。

遠慮しながら看護師さんを呼ぶ。

体勢を変えたとたん、破水をした。

 

慌てる看護師さんがもう1人呼び、2人に挟まれて分娩室に運ばれた。

30分後にはもう娘が生まれ、外にいた夫は驚いたと後日言っていた。

隣の妊婦さんは、その日の午後に男の子が生まれたようだった。

 

出産当日の夕方、落ち込んだ顔で弟がやってきた。

笑わせすぎてごめん、夜ご飯も食べて行ってしまってごめん。

そう言いながらも何故か入院中、毎日毎日夕方になると来て

娘を帰るまで抱っこし、病院食を食べ明日にも来ることを約束して帰っていった。

病院のスタッフに、若い旦那さんと思われるほどであった。

 

弟のおかげで長男と一緒にいられない寂しさも、やや薄らいでいた気がする。

 

第三子に続く・・のか?

子育て昔話 出産第一子編

第一子妊娠時、私はまだ22歳であった。

よく出産後の記憶がホルモンの関係で、強烈に残る。(もしくは物忘れ)

というのを聞いたが、私の記憶は限定的である。

 

5月の半ば過ぎの予定日、男の子というのは生まれる前に分かっていた。

 

そんな5月4日、ゴールデンウィーク

後で皆に怒られたのだが、山にバーベキューに行った。

帰りの山道で、何だかグッグッグと3回子供が下がった感じがした。

「?」

初産であり、若かったこともあり、浅はかだった。

夜ご飯を食べ、お風呂に入り布団に横になった。

数時間後、お腹のシクシクで目が覚めた。

早めに夫を起こす「え!!」とガバっと直角に起き上がった。

漫画みたいな起き方・・と思うが余裕はない。

 

入院準備バッグを持ち(夫が)

車をとばし(夫が)

病院の駐車場に停めるのでさえパニくり(夫が)

 

病院に着くと、両方の両親がもう来ていた。

そういえば家を出る前に、夫が大騒ぎをして電話をしていたのだった。

初孫でもあり、4人ともソワソワしている。

この時点でAM3:00位。

 

夜が明け午後になってもまだ生まれていなかった。

その間、私の父が「お姉ちゃん(私のこと、3兄弟の長女だ)痛いのか?」

と陣痛真っ最中の私に無神経に聞き母にブチギレられ(笑)

夫は「エビのこと考えて!(この世の終わりに食べたいのはエビチリだ)」

と励ましを受け。

夫の母に腰から火が出る勢いでコスられ。

もうクタクタだった。

 

入院してから14時間、元気な男の子が生まれた。

超不愛想な産科医が赤ちゃんを見てにこにこしている。

「あ、本当に人間が入っていた」

私の感想だが、その後、胎盤が出てこなく先生が手で取ったり。

胎盤を取っている間の私の声で、外にいた私の母が卒倒したり

色々あったが、何とかかんとか無事終わった。

 

私の母は「次があるとしたら、生まれてから呼んで」

と青白い顔で言っていた。

当然であろう。

ここから私の育児が始まるのである。 

子育て 昔話

子どもは育てたように育つ。

子育ては親育て、等よく聞く。

今子ども3人が自立に向かっているが

失敗ばかり思い出す。

犬の散歩中に不意に思い出し、あー!と頭を抱えしゃがみたくなるくらいだ。

(もちろん大人なのでしないが)

 

もともと気に病んでしまう性格のため、前向きになるよう 

子育て中、印象に残っていることを書いていこうと思う。

 

 

中国寧波 最終日

狭いホテルで目が覚め、窓から外を見る。

 高速道路の向こうに工事現場っぽいものが見える。

 

「今日やっと帰れる!」朝食を食べながら喜びに震える。

シャトルバスに乗り込み空港へ。

 

空港に到着し搭乗までお土産を買おうと思い、A君と免税店を回る。

そういえば、ドライフルーツを買おうと思ってたんだよね・・

とつぶやく。

俺が言ってみる!と張り切るA君。

「ドライフルーツありますか」日本語だ

戸惑う店員さん。

ドライマンゴーと一言ずつはっきり言う。

さっきまでお土産を買ってほしくて、周りにたくさんいた店員さんが困惑している。

 2人で売り場を去る。

中国の人を黙らすA君、確実にこの出張で一回りも二回りも成長したようだ。

 

お土産を買い、スーツケースにひとまとめにしたいと考えた。

A君のファスナーが閉まらず、私が上に乗り何とか閉める。

「おー閉まったー!」

と盛り上がる2人を、抜け殻のような顔で見る社長。

この4日間、とても気を張っていたのだろう。

しかし私たちが乗る飛行機は成田に着陸し

東京→仙台は新幹線に乗らなくては帰れないのだ。

 

成田空港に到着した後、くたくたの体で乗り継ぎのアクセス線に乗り

東京駅から仙台駅へ。

 

仙台駅には家族が迎えに来てくれていた。

「いやー長いGWだった」と夫。

お土産を渡しながら、次回家族旅行は上海に行こうと誘う。

 

せっかくの上海、せっかくの海外。

ただただ漫然と過ごしてしまった。

「計画はきちんと」を胸にリベンジを誓ったのであった。

中国寧波 3日目

昨日工場巡りをして緊張していたのだろう

朝起きたとき全身筋肉痛だった。

今日は寧波→上海への移動日で、明日は日本に帰れるのだ。

 

3人で朝食をとり、身支度をして廊下に集合して出発。

1日目の反省を生かし、昨日通訳の方にお願いして

今日乗れる高速鉄道の切符を買ってもらっていた。

 

タクシーに乗り、寧波駅のザワザワしている待合室で列車を待つ。

大きい電光掲示板があり、そこに表示された順番でホームに入れるらしい。

人口が多いということで、そこここで工夫されているのを感じた。

私たちの番号が表示され、ホームに入り高速鉄道に乗り込む。

 

座席は指定席だった。

4席対面で前には、3歳くらいの女の子連れのお母さんが座っていた。

黒いおにぎりの粒々をひとつずつ剥がしながら食べている。

中国語でお話したり、歌をうたったり

堪らない可愛さで、娘の幼児時代を思い出し涙ぐむ(単純)

 

途中お母さんが「トイレに行きたいから、この子見てて」

と私に中国語で言った。

OK、見てるから行ってきて~と私。

A君「何で〇〇さん今の言葉分かったんすか」と聞かれる。

何でか、何を言っているのか分かるようになっている。

すごく不思議な感覚だが、3日目くらいから言葉が分かるようになる体質のようだ。

 

上海駅に到着、その後またまた移動。

海浦東空港の近くラマダプラザ上海エアポートという

あきらか飛行機待ちの人が泊まるホテルだ。

明日は空港にシャトルバスで運んでくれるらしい。

 

明日まで結構な時間があり、当時の私がとてももったいないことをしたと思っているのだが

何もせず夜ご飯を食べ、下の売店を覗いただけでその夜は終わった。

 

4日目に続く

 

中国寧波 2日目

シェラトン寧波ホテルで目が覚めた2日目。

寧波東港喜来登酒店 中国でホテルは酒店っていうのか・・

等考えていた時、預けられていた海外用ガラケーが鳴った。

その当時、SIMカードやモバイルwifiはそれほど普及していなかった。

「朝食に行ってきますね」

と社長だった、はてなマークが頭に浮かぶ。

朝食の誘いなのか、報告なのか分からず混乱する。

「え、1人で行くんですか?」 

「はい」

報告だった・・

A君も一緒に行きましょう、と誘う。

「まあ、それでもいいですけど」と渋々応じる社長。

社長 A君と部屋前の廊下で待ち合わせ、エレベータに乗った。

 

1階が朝食会場だった。

エレベーターで下っている途中、バスローブに水泳帽をかぶった

ダチョウ倶楽部の竜ちゃんにそっくりな

恐らく中国の方が乗ってきた。

「!!!」←私とA君の心理描写。

そうして赤面した顔で水泳帽を外し、手の中に押し込みガウンの前を合わせている。

後で考えれば、プールがあるホテルなのでバスローブ姿だろうが

水泳帽をかぶってようがいいのだ。

しかしその当時は、中国版竜ちゃんの恥ずかしそうな姿と相まって

外国ハイもあり、面白くてしょうがなく必死に笑いをこらえた。

 

朝食後、身支度をしてロビーに降りた。

取引先の案内ガイド&通訳の若い女性(美人)が現れた。

なぜか社長、某資生堂のアイシャドウパレットと口紅のセットを

おもむろに取り出し「プレゼントフォー・ユー」と渡した。

「ありがとうございます」日本語だった。

前年社長一人で寧波に来た際、彼女にお世話になり用意していたらしい。

 

取引先の会社に行く道すがら、寧波の街並みを見る。

城下町と港町を融合したような、ドラクエに出てくるような街だった。

「ここだったら住める・・!」と勝手に思う。

 

取引先の会社に到着し、社長に作ってもらった英語版の名刺を渡す。

のけぞる取引先の社長。

社長、私の肩書何にしたの?と思うが口に出すと訳されてしまうので

笑って受け流した。

 

その後、3か所ほど工場見学をし、途中で超豪華なレストランで昼食をごちそうになり

朝出たホテルに帰宅。

もうくたくただが、明日は上海に帰るための移動日なのだ。

~~~~~3日目に続く